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こんにちは。新入社員のIです。

会社の研修という形で、9月5日に福島へ行ってきました。
震災後から約6年経った現場を見てきた感想と、井上きみどり先生の「ふくしまノート」を見た当時の状況を見たうえで、レポートで書きたいと思います。

まず、仙台空港へ降りた際に「この周辺もすべて流されていた」と説明を聞き、移動中にも周りの景色を見るたびにその言葉が脳裏に浮かびました。

福島県に入ると、手が付けられていない状態の道や、積まれたままになっている放射能物質や廃棄物が目立つようになり、次第に人の姿も見えなくなりました。
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JR富岡駅では、写真のように家が流されていた跡が生々しく残っていました。
その隣では、物置らしき建物が、中が散乱したままで誰も手を付けた様子がありません。
被災した爪痕を目の前にすると、ニュースで見た津波の映像を思い出し、その場で体が震えるような感覚になりました。

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それでも、駅の方では作業が進み、バス停の方も整備されており、復興の様子が見て取れました。
復興が進んでいる様子と、そのまま手を付けられていない現場の様子がすぐ近くにあり、改めて復興状況と、手を付けられていない現状を、目のあたりにしました。

原発に近づいていくにつれ、放射能の量を示す掲示が目立つようになり、バイク通行禁止の看板など、厳粛で物々しい雰囲気になってきました。

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そして帰宅困難区域に入ると、お店の中身はそのまま散乱した状態で放置され住宅には人が入らないようにと柵が設置されていました。
別世界に来たかのように、文字通り人気のない風景がずっと続きます。

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たどり着いた原発への通路は、通行証が必要なためこれ以上先には進めませんでした。
その先の対向車線からは、原発作業員の方々が乗っていたバスや車が通り過ぎていきました。

今でも、現場では汚染水処理のために作業員の方々が働いているんだと知ると、作業以外で僕たちに何かできる事はないのか考えさせられました。

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その後は、JRの浪江駅へ行きました。

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福島県内では、ここより先に電車は通っていません。
電車が通るレールの場所にはサビがなく、それより先はずっとサビたままです。

飛行機の時間もあり、ここまでを見て帰路につくこととなりました。

振り返ってみると、私達が見た部分というのは、福島県の現状の一部だけだと思います。
それでも、帰宅困難区域の様子や、住宅が流されたという確かな様子を見ると、復興に関してはまだまだ僕らが思っている以上に困難な事なんだと感じました。

「ふくしまノート」には、障害のある方が、避難指示に気付かずに残され、十分な支援を受けられないまま亡くなったというエピソードが掲載されていました。
その他にも、放射能の量についての偏見や基準値などの混乱の様子、自家栽培で採れた農作物が原因で、家族との溝が出来た方のお話。医療に携わっている方々の当時の様子などが描かれています。

震災は土地や建物だけではなく、人々が関わってきたものすべてを変えてしまうものなんだと、改めて思い知りました。

自分自身で何ができるか改めて考えたところ、募金や産地の商品を買って景気付けることぐらいしか浮かびません。
ただ、「自分には何が出来るか」を、考え続ける事が大事なのではないかと思います。

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