圧倒的な当事者意識

前に流し込みの「流し込み」って何を流すのか意味がわからんので共通言語の意味を明確にすべき、話をもらったのですが、

CMS大阪夏祭りでの基調講演

確かに共通言語とは日本語でさえも難しいものなので、はっきりした定義づけを行うべきだったりします。

そこで
「圧倒的な当事者意識」
という言葉の意味づけです。

「圧倒的な当事者意識」とは、当事者意識が圧倒的ということです、当事者意識はわかると思いますが、自分ごとのようにとらえることが当事者意識、そして、自分の持ち場を越え、分をわきまえないことを意味します。何で圧倒的な当事者意識が必要なのかというと・・。

当事者意識はチームの士気を5倍にする、という考え方があります。当たり前の話で、自分で決めて自分で悩んで自分で解決した方法や結果と、人から全て指示を受けて行った方法や結果を比較すると、創意工夫や最終成果物の品質で差異が出るのは当たり前という話です。そして、もっとリアルな話で言えば、顧客からの依頼相談に関して、全く知らない他人の依頼よりも自分の兄弟などの身内の相談依頼の場合で言えば、当事者意識が変化するのが当たり前という発想です。いくら、スタッフは家族、顧客は友達、と言ったとしてもそれ以上の関係性があれば、当事者意識の発想は自然と生まれるんです。

ドラッカーの話で言えば、

組織にも違いがある。凡庸と一流の違いというよりは、学んでいる組織と学んでいない組織の違いである。 
前者は組織そのものが成長している。後者は仕事はできるかもしれないが、五時を過ぎれば忘れられる組織である。

組織を考えた際に学んでいく必要があるけれども、その学びが何なのか当事者意識を持たないと市場も顧客も組織も理解できないので、結果としてベクトルがあわなく成果も生まれない。会社組織の単なる一員として指示待ちになったとたん、自分の行動の改善が生まれないばかりか、改善を生ませようと周囲が必死になるので組織としてマイナスの歯車が永遠回り続ける、という危機が生まれます。

忖度するのも大事ですが、組織にとっても将来にとっても自分にとっても大事なことは正しい場合には正しく発言し行動する主体的な意識、これが当事者意識です。そして圧倒的な当事者意識になるというのは、組織や会社や市場で起きることを自分ごとのようにとらえることが圧倒的なという修飾語の意味になります。

もっと単純に言えば、会社に落ちているゴミを拾わない経営者はいない気がしますが、スタッフはいるはず。会社をきれいに、こんな些細な意識も当事者意識というものの1つですし、電気つきっぱなしはよくないので消しておこうなども当事者意識の1つです。家だともったいないから消しておこう、という当事者意識はあっても会社組織になるとやらない、当事者意識は場所によって変化するんです。

この圧倒的な当事者意識=自分がチームを率いる、という超主体性の発現です。ただこれだけですが、受身になっていくとこれが全くできなくなるもの。
牙を抜かれたトラのように、指示待ち、言われないとわからない、顧客心理を理解できない、組織やチームで動くことを理解できない、経費を経費と思わない、利益は全て自分の恩恵である、生産性を意識しない・改善しない、最優先を自分の利益という傾向をずっとずっと継続してしまう、などなど、弱い組織傾向に全部あてはまるようになります。

だからこそ。「圧倒的な当事者意識」が必要になるわけです。難しいこと書いてますが、自転車の空気なくなってきてるからちょっと入れておこう、などのほかの人への配慮、これだけでも弱いけど当事者意識、必要なのは圧倒的なほう。サッカーだと「おれにボールをまわせ、おれが決めてやる」というあの圧倒的な当事者意識、あれです。

誰かがやってくれるからあたしはゆっくりしておこう = 弱い組織傾向

全員参加型経営には「圧倒的な当事者意識」が必要です。

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